被爆者の話を聞く

日野在住の被爆者の方のお話を聞きました

 8月3日、「被爆体験を聞く会に」参加し日野市在住の被爆者Kさんのお話を伺いました。以下要約します。

 私は広島で被爆しました。以前は爆心地からほど近い所に住んでいましたが、当時は少し離れた所に引っ越していました。以前住んでいたのは中島町という広島の中心地で、賑やかな繁華街でした。
 Kさんのお宅は写真館だったということで、何枚かの写真を見せていただきました。中島町の通りの様子を写した写真は、昭和レトロのステキな街並みです。また夕涼みをしている一家団欒の写真も見せていただきました。窓が開け放され、目の前に川が流れその先に産業奨励館(今の原爆ドーム)が見えています。
 爆心地は現在平和公園になっているため、「人が住んでいなくて良かったですね」と言われる方がいますが、約2,000世帯9000人の人が住んでいたのです。全ての建物が壊されほとんどの方が亡くなりました。
 当時私は病気のため2度目の6年生でした。その日は学校の教室で本を読んでいました。ピカッと光り辺りは真っ白になり、身体を上から叩きつけられ下から突き上げられる感じでした。校舎は壊れて下敷きになりました。真っ暗になり何も聞えません。今でも耳の聞こえが悪い状態が続いています。その内一条の光が射し、それに向かっていくと校舎の屋根に出ました。空に向かって原始雲が悪魔のようにぐりっぐりっと上っていくところでした。その時まで学校に爆弾が落ちたのだと思っていたのですが、町全体が破壊されていることがわかりました。自分は覚えていないのですが後から友達に聞いたところ、何人か下敷きになっている友達を引きずり出したようです。友達の「助けて」という声が聞えていたのですが、校舎が燃え始めたので逃げなければなりませんでした。
 家に向かう途中、いつもはきれいな女の人たちが髪の毛はゴワゴワに逆立ち、裸同然でで襤褸切れをぶら下げながら歩いて来るのです。熱線で着物が焼かれ、ボロだと思ったのは焼けはがれた皮膚でした。赤ちゃんを逆さまに抱いていると思ったのは、首がない赤ちゃんでした。
 我が家は兄二人が出征していましたが、家に帰ると母、姉、弟たちは無事でした。父が遅れて帰って来ました。その父は8月末に髪の毛が抜け鼻や歯茎や内臓から出血する急性症状が出て、一進一退を繰り返し、2年半後に白血病で亡くなりました。私も急性症状が出ましたが治りました。1991年に胃がんを手術し、その後原爆症と認定されました。
 被爆40年後に親友でありグラフィックデザイナーの片岡脩さんが「ラブピース平和ポスター展」を開催し、その時生き残った同期生と再会できました。43人中9人しか生き残っていませんでした。被爆後友達を助けられなかった生き残りとして平和式典へも参加できずにきましたが、このポスター展をきっかけに、このままでは被爆体験を語るものがいなくなってしまうという気持ちになり、被爆体験を語るようになりました。

 命を削っててお話をして下さる被爆者の思いを無駄にしないために、核兵器廃絶を全世界に訴える責任が私たち日本人にはあるのだと改めて思いました。
                   (文責:出沼恵美子)

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